これは、少し前の、もう誰も覚えていない、ささやかな日常の、ささやかな会話の一つ。
繰り返される日々の中で、悲しみや苦しみに押し流され、忘れ去られてしまった記憶の断片だ。
――水。
それは万物を構成する基本要素。たとえ超常のあと、生物たちの――人間たちの姿形が爆発的な速度で変化している現代においても、それは変わらない。
「人間の身体は、70%が水分なんだって」
緑の髪の少年が、広げた本の一節を指でなぞりながら言った。
「それって、どれくらい?」
「そんなこともわからねえのかよ」
首を傾げるなまえに、金髪の少年は両手の指を十本広げてみせ、そのうちの三本、右手の親指、薬指、小指を折ってみせる。
「こんくらいだ」
「へえー」
「だから、水がないと人間は死んじゃうんだ」
「死んじゃうの?」
なまえは自分の髪に溜まったそれを見つめる。金髪の少年がいたずらっぽく笑って、なまえの髪を指でつついた。なまえの髪はぽよぽよと弾むので、やめて!と手で押さえる。それを見て少年はますます楽しげに笑った。
「水って大事なのね」
緑の髪の少年の後ろまで逃げたなまえは、本の内容に視線を取られ、少年の肩越しに読んでみる。
「海面から水蒸気が上がって雲になって、雨が降って川になる。海に戻った水はまた……」
そうして巡るのだ。いくつもの生命の中を。
二人の目の前からぱっと本が取り上げられた。金髪の少年は得意げに数ページ先を開き、二人の目の前に突きつける。
「雨は降り過ぎると土砂災害を引き起こす。津波が来れば家だってひとたまりもないぜ」
「もう、どうしてすぐそういうこというの?」
なまえは本を取り返そうと手を伸ばした。それは緑髪の少年が図書館から借りてきたものだ。
それは恐らく、授業で班ごとに出された課題に取り組んでいたときの記憶だろう。自然について調べ、一枚の大きな紙にまとめて、発表する。
なまえにとって一番身近な自然とは、水だった。
それについて、六人のメンバーで調べている途中だ。他の子たちはどんな子だったろうか。水に浸された和紙から絵の具が溶け出すように、その景色はもう曖昧だ。
水はなまえにとってだけでなく、皆にとって必要なものだ。しかしそれは、恵みをもたらすだけではない。
望まない結果をもたらすことがある。
生命を育むだけでなく。
生命を奪うこともある。
なまえがそれを身を持って知ることになるのは、ほどなくしてのことだった。
発表のために作られた紙ももう残っていない。けれど、そのとき学んだ知識と、そのとき胸に湧いた感情は、消えることなく、なまえの中に息づいている。
奪うのでなく、救うために。
そのためにこそあるのだと、証明したい。
そしてなまえは、雄英の門をくぐった。