第一話 迷惑だ、土砂降り女

 冬半ばの、寒い日だった。
 湿度は49パーセント。なまえの髪は、あまり膨らんでいない。それでもしっとりと湿った表面には丸い水滴がいくつもきらめいていた。
 3体。今のところ、なまえが倒した仮想敵の数だ。ちょうど三種類、ポイントは6。試験開始から1分。
 そろそろ、貯まった。
 なまえは頭上を意識しながら、演習場である市街地の中心へと駆け出した。

 左の路地で激しい音がする。受験生の誰かが会敵したようだ。
 赤い光が建物の影から一瞬見えた。向こうもなまえを発見したらしい。モーターの駆動音に、壁に機体を擦る音、重いタイヤがアスファルトを削る音。なまえは身構え、通路から仮想敵が現れる一瞬を狙った。
 仮想敵の頭部に、空から槍が降ってきて、貫通した。穴の開いた仮想敵は煙をひとつふたつ吐いて、停止した。しかし硬い装甲を容易く貫いた槍はその足元にはなく、ただ地面がびっしょりと濡れている。続いてその隣の路地から仮想敵が飛び出してきた。二体、三体、と続々と出てくる。なまえが二体目を破壊するのとほぼ同時に、隣の一体が破壊された。それを破壊した受験生はすでに先へ進んでいた。なまえも負けじと瓦礫を飛び越え、走る。
 これで10ポイント。1分30秒経過。他の人はどれくらい倒したのだろう。少し焦りが生まれ始める。広い場所に出て、敵をたくさん集められれば、一網打尽にできるかもしれない。でも、その場合他の受験生も集まるだろう。あまり派手な動きはできない。
 考えながら、なまえは戦闘が発生している方へ進む。仮想敵というくらいなので、向こうからこちらを探して現れる。一体、ときには三体、まとめて倒す。いいペースだ。機械の仮想敵に対して、なまえの個性は存分に発揮されている。
「残りはあと……」
 周囲を確認しようとしたとき、爆発音が聞こえて思わず足を止めた。大規模ではない。連続して起こっている。
 誰かが起こしている。
 鳴り止まない音に、身体が竦んだ。しかもそれは、近づいてくる。爆発とは反対方向から、仮想敵が群れで出現した。あの派手な音につられたようだ。仮想敵のうち一体がなまえを発見する。カメラの視野に入った。それでようやく呪縛が解ける。なまえはすばやく槍を降らして、仮想敵をすべて倒した。つい力んでしまい、必要以上に力を使ってしまった。仮想敵はぺしゃんこだ。
 だめだ。
 爆発音が近づいている。
 あの音。忘れるはずがない。
 ざあ、と周囲が一瞬にして土砂降りになり、煙った。
「っだぁ、このクソ雨は!」
 爆発音と共に飛び出してきた少年が、ずぶ濡れになって悪態をついた。
 目が合う。
 少年は三白眼を吊り上げて、なまえを睨んだ。
「てめェの個性か! 迷惑かけんじゃねェ! この土砂降り女!」
 言うだけ言うと、少年は置き土産のように手のひらから爆破をし、その爆風の勢いで少年はどこかへ去っていった。
 嵐は過ぎ去った。
 しかし、土砂降りは止まなかった。止められなかった。
 なまえの心に溢れた涙がそのまま滝になったかのように、周囲10メートルを濡らした。
 それは地面に沁み込むよりも早く瓦礫を穿ち、破片を浮かせ、流れ出す。
 止めなければ。
 もうずっと、こんな風になることはなかったのに。
 コントロールできるようになったはずだった。もう、落ち込んだって、周りに迷惑をかけることなんてしないって、自分でどうにかできるって、そのはずだったのに。
 あの目が。
 あの声が。
 あの、鼓膜を破るような、爆破音が。
 恐ろしくて、どうしてもだめだった。

「ねえ、あなた!」

 土砂降りの中をかいくぐって届いた声に、なまえの思考は中断された。雨でぼやけて見えないが、どうやら少女のようだ。少女は水を苦にすることなく、近づいてくる。
「私見てたのだけど、これ、あなたの仕業なのでしょ? 頭上の水溜り、ずいぶん大きいけれど、あれがなくなるまでこの雨は止まないの?」
「……ごめん、なさい……っ、私……」
 少女の顔が見えるくらいになった。印象的なのは、その真っ黒な目だった。大きな口とその瞳からは感情が読めず、何を考えているのかわかりにくいが、しかしその落ち着いた声音と、雨の中ぱっちり開いている瞳が、なまえに安心感をもたらした。
「大丈夫よ」
 彼女はなまえの手をそっと叩いた。
「落ち着いて。やればできるわ。あなたはこの雨を止められるわ」
「……はいっ……」
 なまえは涙を引っ込めて、心を集中させた。雨音がすべてを洗い流してくれる。肌を叩く水滴が、震えを収めてくれる。
 大丈夫だ。
「……止んだわ」
「……できた……っ」
 二人が頭上を見上げると、真っ青な空に、ぽっかりと水球が浮いていた。あれが雨を降らしていた雲ならぬ水貯めだった。
「ありがとう! お陰で落ち着けた……」
「よかったわ。ちょうど通りかかったところだったの。あの水、あなたのコントロールを離れたように見えて」
「そうなの。実は」
「待って。話は後にしましょう」
「でも」
「まだ五分あるわ。お互い頑張りましょう」
「あっ……」
 彼女は長い舌を口からぺろりと出し、ケロケロと鳴いて、跳ねるように瓦礫の上を跳んで行った。彼女の足が蹴ったところに水滴が飛び散って、きらきらと太陽の光を反射した。
「……ありがとう、蛙ちゃん」
 なまえは声に出して気持ちを切り替えると、演習へ意識を引き戻した。

 雄英高等学校。
 プロヒーローとなる者たちの登竜門。
 その一歩を今、みょうじなまえもまた、踏み出したのだった。