「送っていくよ。小黒を迎えに館に行かなくてはならないしね」
そろそろ帰る時間になって、无限大人はそう言って一緒にホテルを出ることになった。こうして並んで歩くのも、もう当然のようになっているけれど、改めて不思議に思う。无限大人は、どうしてこんなに私と親しくしてくれるようになったんだろう。
「无限大人は、どうしてあのとき、誘いを受けてくれたんですか」
「うん?」
「あの、会ったばかりのころ、无限大人に助けてもらったあと、お礼をするって食事に誘ったとき……」
「ああ」
以前、館で男に絡まれ、困っていた女性が无限大人を誘っていたけれど、断っていたのが頭に過る。彼女と私、何が違ったんだろう。
「君に興味があった、からかな。話してみたいと思った」
「私が、日本人だからですか?」
「それもある。だが、それだけじゃなかった」
无限大人が私を見つめる。私も思わず見つめ返してしまう。それだけじゃないって、どういうこと? 何か、私だからこそのことが、あったのだろうか。自分では、全然わからないけれど。
「あのとき、誘いを受けてよかったと思っているよ。こんなに楽しい日々を過ごせたからね」
「それは、私の方こそです。お陰で、とても充実しました。ありがとうございます」
「美味しい和食も食べられたし、小黒とも仲良くなってくれて、感謝している」
「はい。小黒とも、出会えてよかったです」
私が无限大人のことを好きだと知っても、小黒は嫌がらないでいてくれた。それが嬉しい。
「私が帰ったら、小黒寂しがってくれるかな……」
「それはもちろん、寂しがるに決まっているだろう」
「私も……寂しいです……」
自分で言って、辛くなってしまった。やっぱり、帰りたくない気持ちが強くなってきている。もういっそ、こちらに残るのもいいのかもしれない。そうだ、いままであまり考えていなかったけれど、こちらでこのまま働かせてもらえたら、それが一番いいんじゃないだろうか。でも、両親は日本で働いてほしいと思っているだろう。代々そこで働いてきたから。私も、そうするつもりだった。でも、今は迷っている。これは一時だけの迷いだろうか。それとも、一生後悔することになるだろうか。どちらを選んでも、やはり後悔は残るだろう。なら、より後悔の少ない方を選ぶしかない。
「君が帰ってしまうのは残念だが、君を待っている人がいるのだから、仕方がないな」
「そう、ですね……」
日本で一緒に過ごした家族や、同僚の顔が浮かんでくる。彼らは私が帰るのを待ってくれている。こちらに残るのは、彼らに対する裏切りになるだろうか。
「私の居場所は……」
もちろん、日本だ。でも、こちらに新しく居場所ができつつあると、思ってはいけないだろうか。もしできるなら、それが彼の隣であればいいのに。けれどまだ、踏ん切りがつかない。本当にそれでいいのだろうか。今私は、とんでもない思い違いをしようとしているのではないか。そんな不安が膨らんでくる。この土地が好きだ。館も、妖精たちも、好きになった。こちらで私ができることも、まだあると思う。新しい可能性を閉じて、元居た場所に戻ってしまって本当にいいんだろうか。でも、こちらにいたいという気持ちは、本物だろうか。ただ彼への恋しさに、土地に執着してしまっているだけではないだろうか。わからない。自分の思いが信じられない。彼が好きという思いの大きさに、他に考えるべきことが覆い隠されて見えなくなってしまっているような気がする。このまま突き進んでしまって、本当にいいの?
「せっかく馴染んできたところなのに、もうお別れなんて、早いですよね……」
「そうだな……」
沈黙が下りる。それから、何を話せばいいかわからなくなってしまった。いろんなことを話しておきたいのに、言葉がまとまらなくて声にならない。无限大人も、多くは語らない。ただ黙って、歩き続けた。もうすぐアパートについてしまう。アパートについたらお別れだ。少しゆっくり歩いていたら、无限大人もそれに合わせてくれていることに気付いた。
ああ、この人が好きだ。
その気持ちだけは確かなんだ。
あとは、どう振る舞うかだけ。
「ありがとうございました」
しっかりと顔を合わせて、お礼を伝える。无限大人は踵を返しながら言った。
「では、また」
その背中を見送って、ドアを開ける。心の中はぐるぐると渦巻いたままだった。