豫園に行くとき、彼女はいつもと少し違う恰好をしていたのが印象に残っていた。パンツを穿いた姿が珍しかった。思い出してみれば、彼女はスカートの方をよく穿いていた。庭園を見ると、以前行った退思園を思い出させた。小黒もそうだったようで、小香と手をしっかりと繋いでいた。こちらは退思園より広いから、迷子になったらあの時ほど簡単には出会えないだろう。小香の姿を見失わないよう、なるべく後ろをついていくようにした。小香は小黒と手を繋ぎ、興味深そうに奇石を眺めては、美しい池を写真に撮っていた。写真にはあまり詳しくないが、彼女は腕がいい方だと思う。私では思いつかないアングルで綺麗に景色を収めている。写真には、そのときの会話や感情が込められる。写真を見れば、このときのことを鮮やかに思い出せるだろう。そう思って、私も小香と小黒の二人を端末のカメラで撮っておいた。小香は、こちらに来てから少し髪が伸びたと思う。笑顔が自然になった。始めは、やはりどこか緊張があった。それが、かなり柔和になったと感じる。とくに小黒の前では、とても優しい笑い方をする。私に向ける笑顔は、華やいでいて、少し硬い。まだ、すべてを向けてはくれていないのかもしれない、と感じる。私は彼女に、どんな顔で相対しているだろうか。
ふと、以前彼女が漢服を着ていた姿を見たときのことを思い出した。あの頃はまだ出会ってそれほど経っていなかったが、たおやかに長い裾を翻して歩く姿が彼女が女性であることを私に意識させた。そういう気持ちで女性を見たのはいつぶりだろう。自然と目を奪われた。彼女の肌に、生地の色がよく似合っていた。しかし、それっきり彼女は漢服を着ることはなかったので、また見たいと思った。そう伝えると、彼女はそんな見せるものじゃない、と謙遜していたが、そんなことはないと思う。彼女の魅力がより引き出されていた。小黒の後押しもあって、最後には彼女も頷いてくれた。そのときが楽しみになった。
小籠包は並んだだけあって、それなりの味だった。小黒と共にたくさん頼んだけれど、彼女はあまり食べていないように見えたので、いろいろと勧めた。彼女は一口食べるたびに目を丸くし、美味しい、と頬を蕩けさせるので、もっと勧めたくなった。
豫園商城の方は、かなりの人出だった。はぐれないように、より注意が必要だった。彼女が写真を撮ろうと端末を取り出そうとして落としたとき、後ろに立っていた男が屈んだのを見て、すぐに金属を飛ばした。男はすぐに逃げようとしたので転ばせ、取り押さえる。手にはやはり小香の端末が握られていた。こういうところには、こういう輩が多くいる。すぐに取り返し、警察に引き渡した。彼女のような人は特に狙われやすい。どうにも無防備だから。私が一緒にいられる間は私が気を付けていればいいが、そうでないとき、被害にあっていないかと心配になる。ずっと見守っていられればいいが、そうもいかない。けれど、彼女のそういうところがこの柔らかな雰囲気の理由のひとつだろうから、警戒心を持てとは強く言いたくない。彼女には、そのままでいてほしい。
その後、夕方ごろに外灘の方へ移動した。三輪バイクで移動したが、狭いところにぎゅうぎゅうと座ってしまったので申し訳なかった。この辺りも古い建物を保存されている。さきほどの場所より時代は進んでいる。時代の流れを感じながら、感嘆して景色を眺めている小香の横顔を見る。もうすぐ日が沈みそうだった。黄浦江沿いにはすでに人が集まっている。やがて川の向こうの高層ビルの明かりが点いた。豫園から考えると、結構な技術の進歩だ。これが今のこの国の発展の象徴とされている。人間はここまで大きくなった。妖精は、今後どう生きていくことができるだろう。
隣でくしゃみが聞こえたので、寒いか、と思い上着を脱いで肩に掛けた。昼間の暖かさに比べたら、だいぶ冷え込んできた。私のジャケットは当然ながら彼女には大きくて、その身体の小柄さを改めて実感した。素直に上着を引き寄せる彼女にかわいらしい、という感情が湧いた。アパートまで無事に送り届けないと心配なくらいだ。
帰り際、次の約束を交わして、早めに休みが取れるといいがと思った。
龍遊民居苑に行く日、彼女は時間ぎりぎりに慌てて到着した。きっと綺麗にセットしたのだろう髪が少し乱れていたが、それも遅刻しないよう急いで来たのだろうと思うと愛らしく感じられた。民居苑の景色は彼女の姿をよく引き立たせていた。つい眺めていたら、何度か彼女と目が合い、ついにはなぜ見ているのか聞かれてしまった。
「私、どこかおかしいですか?」
「いいや。綺麗だよ」
「えっ!!」
彼女の驚いた声が響いて、びくりと周囲を気にするように肩を竦めたのが面白かった。そんなに驚くことはないだろう。素直に褒めただけだ。裾を翻して歩く姿が美しいと思って、目が離せなかった。
龍遊石窟では少し歩きにくそうにしていたから、ここを選んだのはよくなかったかもしれない、と反省した。彼女が転ばないよう、階段を降りるときは手を貸して、階段を昇るときは万が一落ちてきても受け止められるよう後ろを歩いた。帰りの電車で、小黒が海に行きたいと言い出したので、次はそこに決まった。最近は暖かくなってきたから、ちょうどいいだろう。小香と小黒と三人で過ごす、初めての夏だ。
彼女は爽やかなワンピース姿で、いかにも夏といった服装をしていた。三人でフェリーに乗り、目的の島まで向かった。彼女が水着を持ってこないとは思わなかった。一緒に泳ぐつもりだったので、とても残念に思った。せっかく海に来たのに、どうして水着を着ないのだろう。泳がないにしても、着るだけ着てもいいのではないか。
訴えてもないものはないので、仕方なく小黒と二人で海に向かった。泳ぐ私たちを、小香は波打ち際まできて足を濡らしながらカメラに収めていた。あんなに深いところまで来たら何かの拍子に服が濡れてしまいそうではらはらした。スカートが濡れないようにたくし上げて、太腿がちらりと覗いて、目を逸らした。彼女は気にせず、楽しそうに笑っていた。海が反射する光のせいか、彼女の表情がとても輝いて見えた。
砂浜を歩いていると、女性たちに声を掛けられた。これからジェットスキーをするから一緒にしないかという誘いだった。私は小香と小黒が座っているところを差し、連れがいるからと伝えると、「子持ちか……」と残念そうな声を出された。傍から見れば、私たちは家族に見えるのだとはたと気付いた。小香が妻で、小黒が息子。それも悪くない、と思いながら二人の下に戻っていった。
泳いだ後は砂遊びをして、大きなたこさんウインナーを作った。小黒の背丈ほどの高さまで砂を盛って、その出来栄えに満足した。砂を落としに海へ向かって、傍を通った人の上げた水飛沫が掛かってしまって、彼女のワンピースが濡れる。肌に密着する生地が透けてしまいそうで、すぐにタオルを羽織らせた。
夕暮れが迫ってくる中、堤防を三人で歩く。海は穏やかだった。次に来るときはぜひ水着を着てほしいといったが、色よい返事はもらえなかった。彼女がこうもはっきり否定の意志を見せるのは珍しい。そんなに嫌だろうか……。
次に来るのは、今年でもいいし、来年でもいい。彼女が帰ってしまったとしても、また来て欲しいと感じていた。
「いつの間にか私も小黒も、君と一緒にどこへ行くか考えるのが楽しみになっていたよ」
正直な気持ちを彼女に伝えた。だから、これからもこうして一緒に出かけよう。そんな思いを込めて。彼女はじっと私を見上げてくる。何か、言いたいように口をわずかに開く。けれど、言葉は出てこない。赤い光が彼女の頬を照らし、その瞳を輝かせていた。あまりに見つめられると、何か言ってはいけないことを口にしてしまいそうな気がした。
「そろそろ、帰ろうか」
「……はい」
だから、そう言って、気持ちを切り替えた。小黒が駆け寄ってきて、私の手を握る。そして反対の手を小香に向けた。親子。そのイメージが瞼の裏に浮かんで消えない。まだ、時間はある。考えなければ。舞い上がった気持ちで無責任に行動してはいけない。彼女の人生と小黒の人生、そして私自身のことを、ちゃんと考えよう。
彼女から電話が来た時には何か悪いことが起こったのかと心配になった。しかし、用件は食事に誘うもので、ほっとした。食事と聞いて、またカレーが食べたくなったので何度か訪れた定食屋を希望した。しかし、定食屋のカレーは小香が作ってくれたものとは少し味が違っていた。こちらは日本のものに近いらしい。これが小香が食べて育った味か、と不思議な気持ちになる。そして、この目で彼女の生まれ育った場所を見てみたくなった。いままで、自分が日本を訪れるという考えが浮かばなったことに気付く。こちらでやらなければならないことはたくさんあるから、離れるのが難しいということもあったが、自分が赴けばいいのだという発想はなるほどその通りで、いいと思った。
深緑の件が落着したと聞いてほっとした。私が追いやってしまった妖精が、最終的には館を信頼してくれて、その場にとどまることを決めたというのは嬉しいことだった。やはり小香の尽力が大きいだろう。あれだけ不信感でいっぱいだった彼女の気持ちを受け止め、ほぐしてくれたのだ。私ができないことを、彼女がこなしてくれる。
その信頼感が強まった。
「来る前は、一年って長いと思っていましたけど、こうしてみると、あっという間ですね。もうすぐ終わりなんて」
その言葉に寂しさが募った。やはり、彼女は帰ってしまうのだ。猶予はあまり残されていない。その間に、もっと彼女のことを知りたかった。だから今度は二人で、と誘った。小黒には悪いが、留守番をしていてもらおう。あまり長い時間はかけない。いままで、任務がない時間はできる限り小黒と共に過ごしていた。最近は小黒も落ち着いて、館でも知り合いがたくさんできている。彼らと過ごすことも、あの子には必要なことだ。
いつものようにアパートまで送って、軽く言葉を交わし、そのまま別れようとしたが、名残惜しかった。彼女も同じ思いなのか、その場にとどまって、私を見上げていた。また、その瞳だ。その瞳で見つめられると、私は伝えざるを得なくなってしまう。しかし、それは今ではない。場の雰囲気で伝えてはいけないことだ。もう少し、時間が欲しい。それまで君は、ここにいてくれるだろうか。