60.かけがえのない出会い

 小香が始めた取り組みは、すぐに全土の館に伝えられた。確かに、いままで共有されていなかった情報だ。これができれば、かなり便利になるだろう。しかし、大がかりなことだから思いついてもなかなか実行に移すのは難しい。そこを動かす鶴の一声だ。一度動き出してしまえば、あとは早かった。しばらくは、忙しくしているようだと楊に聞いた。頑張っているのだと頼もしくもなり、一方で無理をしていないか案じもした。だから、様子を確かめようと、手が空いてきた頃合いを見て連絡を取った。食事に誘ったところ、快諾してもらえて安堵する。それだけゆとりが出て来たということだろう。
 行先は、以前行った定食屋に決めた。オムライスをもう一度食べたいと思っていた。久しぶりに会った彼女の表情はいままでよりいっそう明るく、弾んでいた。仕事で培った自信がそう見せているのだろうか。彼女が注文していたカレーも、食欲をそそる香辛料の匂いが強く、食べてみたいという欲求が湧いた。一口味見させてくれるという彼女に、直接食べさせてもらっていた小黒の姿を思い出す。同時に、絶対できないと断言した彼女の言葉を連想してなんとも言えない気持ちになる。それは、そうなんだろうが。
 子供のころの話をする彼女の声は楽しそうで、幼い彼女の姿を想像しては純粋で朗らかな子だったのだろうなと思う。下に兄弟がいるというのは頷けた。小黒に対する姿を見ていると、子供の相手をするのが慣れているのがわかる。家族の愛を受け、まっすぐに育ったから、こんなにも彼女の瞳には愛が溢れているのだろう。
 長期の任務が入り、小黒を預けなければならなくなった。龍游の館を選んだのは、小黒の知り合いが多いからというのもあるし、小香の存在もあった。たまに様子を見てもらえればとは思っていたが、まさか泊めてもらえるとは思っていなかった。迷惑ではないかと案じたが、彼女は楽しいからと快く預かってくれたので助かった。小黒の世話を満足にしてやれないと零したことを気にかけてくれていたのだろう。優しく思いやりのある人だ。二人の様子が気になって、毎日時間を見つけては電話をした。電話の向こうの小黒の声は元気いっぱいで、彼女に預けてよかったと思えた。帰ったらしっかりお礼をしようと決めて、まずはお土産を選んだ。しかし、何を選べば彼女が喜んでくれるかわからない。もっと好みを聞いておくべきだった、と反省しつつ、日持ちのするものを選んだ。そのまま帰るつもりだったが、小黒が腹が減ったと言い出し、彼女が気を使ってお昼を用意してくれた。お礼をするはずが、また世話になってしまった。彼女の部屋はこじんまりとしていて、清潔感がある。料理のためにエプロンをした彼女の姿がよくて、つい眺めてしまった。台所に立ち、てきぱきと動く彼女の後ろ姿、特に髪を上げたうなじのあたりに目が行ってしまい、咳払いをして目を逸らした。しかし部屋の中をじろじろ見るのもよくない、と視線を彷徨わせていたら、写真が目に入った。以前出かけたときのものだ。小黒と私と三人で映っているものの下に、私だけが映った写真も飾ってあった。
「師父、今回の任務はどんなだったの?」
 小黒に声を掛けられて、はっとする。写真から目を逸らし、料理ができあがるまで小黒と話をして待った。できあがったパスタはシンプルだったが、素朴で温かい味がした。小黒はよほど泊りが気に入ったようで、また泊りたいと言った上、私も一緒に泊まればいいと言い出した。妖精であり、子供である小黒には、女性の一人暮らしの部屋に男がいることの問題がわからないだろう。説明はしたが、しぶしぶといった様子で諦めた。
 若水には、これからも小黒を預かってもらえばいいと言われたし、小黒もそれを望んでいそうだったが、しかし彼女は一時的にこちらにいるだけに過ぎない。そう何度も負担はかけられなかった。彼女は優しいからつい甘えそうになるが、それはよくない。私が引き留めたことで彼女がこちらに残ると決めてくれるとは思えないが、いたずらに引き留めることはできなかった。それは彼女の人生を左右することだ。そんな決断を、軽々しく口にすることは憚られた。本音を言えば、若水や小黒と気持ちは同じだったが、だからこそ。
「私も、ここを離れるのは寂しいです」
 そう答えた彼女の表情がとても悲し気に見えて、少し後悔をした。ここにいてほしいと、素直にそう言えればよかったのだろうか。
 久しぶりに館に顔を出したら、妖精たちに囲まれてしまった。歓迎してくれるのはありがたいが、少々時間を取られすぎる。頃合いを見て抜け出し、食堂に行って一息つこうとしたら彼女がいた。同席させてもらい、最近のことなど軽く話す。彼女は私が妖精に好かれていると言うが、彼女も充分好かれている。そう伝えると、少し驚いたようにしていた。彼女のこういうところが、妖精たちを安心させるのだろう。私も、こうして話している時間に安らぎを覚える。だからまた話したいと思えるのだろう。彼女の笑顔と、愛に満ちた瞳を向けられると心が温まる。小黒といるときとはまた違った温かさだった。
 小黒と買い物に出かけた日、この近くに彼女のアパートがあることに気付いた。今日は彼女も休みのはずだ。小黒に伝えて、電話を掛けてみることにした。彼女も出かけていて、お茶をしようと誘ったら快諾してくれた。小黒は以前にも増して彼女に懐いている。やはり泊りを経験して距離が縮まったのだろう。それが少し羨ましい。彼女が小黒に向ける表情は姉のように優しく、愛情が籠っている。
 もう別れる時間が来てしまい、名残を惜しむ小黒の手を引こうとしたら、夕飯にカレーを作るという話を聞いて、食べたくなった。小黒と目を合わせ、彼女の表情を伺う。彼女は仕方ない、というように笑った。そのまま買い物に寄って、彼女の家へまた上がる。写真は前と同じように飾ってあった。腕まくりをし、カレー作りを手伝う。小黒にはあまり手を出さないように言われたが、ただ食べさせてもらうだけではダメだろう。包丁を扱う彼女の手は小さく、私の手にすっぽり収まる。間近に見る肩は華奢だ。シャンプーだろうか、髪からはいい香りがした。火に掛けている鍋の様子を見ようとしたら、なぜかコンロから火が吹き出し、彼女が血相を変えて即座に火を消した。「座っていてください」と言われ、何も言えず小黒の隣に座った。「だから言ったのに」と小黒に呆れられた。たぶん、たまたまコンロの調子が悪かったのだと思う。
 三人で食べるカレーは美味かった。こうして食卓を囲むと、昔、家族で過ごしていたときのことを思い出す。もう長いこと忘れていた感覚だった。小黒が思い出させてくれて、小香が彩りを与えてくれた。こんな日がずっと続けばいいと、ふと思った。帰る家があり、待っていてくれる人がいて、温かい食事がある。それがどれほど心を安定させてくれるか。小黒には、こういうものが必要かもしれない。私だけでは、どうしても手が足りない部分がある。それを埋めてくれる存在が。いや、それを彼女に求めるのは違うだろう。彼女には彼女の人生がある。私たちの勝手で彼女を縛ってはいけない。
 でも例えば、彼女自身がそれを望んでくれたとしたら。
 カレーを食べて腹がいっぱいになると、小黒はそのまま眠ってしまった。
「……うちは、ぜんぜん、何時でも、いてくださって大丈夫ですから……」
 そんな彼女の優しい気遣いに、断ることはできず、また甘えてしまった。彼女のベッドを借りて、小黒を寝かせ、起きるまでお茶を飲む。彼女はまた、いろいろな話を聞かせてくれた。彼女の声は耳に心地よく、不思議と身体に響く。いつまでも聞いていたいと思える声だった。任務であちこちにいっている話になって、そういえば最近は龍遊によく来るようになったことに気付いた。どこか館に寄らなければというとき、思い浮かぶのは彼女の顔だった。せっかくだから、彼女の顔も見てこようか。そうして自然と足が向く。そんなことを伝えると、彼女は頬を赤らめて、肩を竦め、とても嬉しそうに微笑んだ。
「あの、来たのが、龍遊のこの館で、よかったです。……无限大人とも、小黒とも、出会えましたから……」
 その表情を見て、声音を聞いて、来てくれたのが彼女でよかったと、心の底から思った。この出会いが、こんなにもかけがえのないものになるとは、あのころは思っていなかった。偶然何度も会ううちに、自分から会いたいと思うようになり、彼女の方も歓迎してくれて、少しずつ関係を深めていき、心を近づけてきた。今は彼女の部屋へ招いてもらって、一緒に食事を作る仲にまでなった。こんなにも女性と親しくしているのはずいぶん久しぶりのことだ。私は彼女のことを好ましく思っている。その自覚が、最近芽生えてきた。
 いつからというのは判然としない。江心嶼で、恋人はいないと聞いたのがひとつのきっかけだったように思う。それから、彼女の私を見る瞳が熱を帯びていることに気付いた。これは勘違いではないと思う。秋波を送る、というほどではないが、しかし、確かにそこには想いが込められている。けれど、彼女は気付いてほしいというわけではないように振る舞う。どこか隠そうとしている素振りも見受けられる。それに寂しさを感じてしまうのは身勝手だろうか。もし彼女が私に好意を向けてくれたとしたら、私はどう振る舞うべきだろう。ただ彼女に健やかに過ごして欲しい。それが願いだ。彼女の笑顔の隣にいるのが誰だとしても。