37.桜映す瞳

 以前約束した遊園地に行く日が来た。遊園地だから、動きやすい服装がいいだろうと髪をまとめて、ゆったりとしたパンツを履いた。寒いかもしれないと暖かめのコートを選ぶ。
「小香!」
 待ち合わせの場所で待っていると、時間を少し過ぎたころに二人が現れた。无限大人は前に比べるとカジュアルな恰好だ。白いセーターに斜め掛けのバッグをしている。小黒は私を見つけると大きく手を振って駆け寄ってきてくれた。その後ろを无限大人がゆっくりと歩いてくる。足元に来た小黒の頭を撫でると、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「おはよう、小黒。おはようございます、无限大人」
 よかった。ちゃんと挨拶ができた。无限大人は軽く会釈をして笑みを向けてくれた。
「おはよう。待たせてしまったかな」
 その深く、優しい声音に、不安が氷解していく。ああ、大丈夫だ。私は、この人が好き。
 ときめく胸を押さえて、努めて元気に答える。
「いえ! 念のため早めに来るのが癖になってるので」
 十分前行動が身に染みている。途中で交通機関に問題があるかもしれないし、といろいろと考えて早めに行動すると、思ったよりも早めについてしまって時間を持て余してしまうこともある。でも、无限大人と小黒を待たせてしまうよりはそっちの方がずっといい。无限大人はそうか、と言って、行こうと小黒の手を引き私に目配せをして歩き出した。その少し後ろをついていく。話しかけてくる小黒の方へ視線を下ろし、笑みを浮かべる无限大人の横顔を眺めると、頬がじんわりと温かくなっていく。優しくて、慈しむような視線。それがたまにこちらにも向けられると、そのたびにどきんと心臓が跳ねる。そのたびに、好き、という気持ちが花びらのように心の中にひらりひらりと積もっていく。
 まだ胸は切なく疼くけれど――どうしようもなく、膨らんでいく。

 遊園地へは、駅からバスで向かうことになった。昨日は雨だったから心配していたけれど、無事に晴れて、気持ちのいい天気になった。少し早起きだったからか、小黒は珍しく行きのバスで眠っていたけれど、着いたらぱっと目を覚まして元気に歩き出した。
 遊園地の前には森林公園があるので、通り抜けがてらお花見ができた。爽やかな春の匂いが香る暖かい朝だ。周囲には家族連れの姿が目立つ。元気な子供たちの声が響いていた。小黒と同じく、遊園地を目前にして瞳をきらきらさせ、心を躍らせている様子に気持ちが和む。
 小黒はあちらこちらに飛び跳ねるように歩き回りながら、どんどん先へと進んでいく。私と无限大人はその後をゆっくり歩いてついていく。朝、无限大人と顔を合わせるまで少し不安だったけれど、どうやら平静な心で向かい合うことができた。前回のように、顔も見られない状態では楽しく出かけるどころじゃないし、迷惑をかけてしまう。アピールするとかしないとか、そういうことは考えず、とにかくめいっぱい楽しもうと決めた。
「こちらって、新年度は九月からなんですよね」
 小黒の横をもっと小さな子が小さい足を一生懸命動かしながら、親に手を引かれて歩いているのを見て、ふと思う。
「日本は、四月なんです。だから、桜が咲くと、今までのものと別れて、新しい場所に向かうような、そんな気持ちになるんです」
 卒業式から入学式の間に、満開になる桜の下で記念写真を撮ったことを思い出す。小黒はいくつくらいだろうか。人間なら、小学校に入るくらいの年齢に見える。
「桜に背を押してもらって、別れの寂しい気持ちを優しく慰めてもらうような……華やかに彩ってお祝いしてもらうような。だからちょっと、桜には特別な感傷、みたいなものがあります」
「特別な感傷……」
 无限大人は私の言葉を繰り返して、遠くの方を眺めるように目線を少し上げる。私が伝えた感覚を、少しでも理解しようとしてくれているのだろうか。
 先を行く小黒の背中を追って目を上げると、ちょうどその薄紅色の霞が見えてきた。
「あれ! 桜!?」
 小黒が歩きながら振り返って、訊ねる。
「そのようだ」
 无限大人は少し歩を速めて、小黒に追い付く。私も小走りでその後を追いかけた。
 桜の木の周りには、たくさんの人がいて、花を見上げたり、写真を撮ったり、楽しそうにしている。
「いっぱい咲いてる!」
 小黒が花に手を伸ばして跳ねるのを見て、无限大人は小黒を抱き上げ、花に近づけた。小黒は桜の花に目を閉じて鼻を近づける。猫の妖精だから、香りには敏感なのかな。
「すっごくいい香りだよ、小香」
 小黒が手で枝を引きよせ、私を呼ぶので、そっと近づくと、香りを嗅がせてくれた。
「ほんとだ。ほっとする匂い」
 ふと无限大人が顔を近づけてくる気配がして、なのに、動けなくて固まってしまう。私の顔の前にあった花に、彼が鼻を寄せてくる。近すぎて、吐息すら感じそうになる。睫毛の繊細な影すら細かに見えて、その奥で輝く瞳に目が吸い込まれた。
 薄紅色の中で、その色はあまりに透き通っていて、奥まで光が輝いていて、とても深くて、複雑な虹彩に囚われてしまう。
 瞳が動いて、私を映す。
 夢の光景が頭の中で広がった。
 ――いけない。
「あ! あっちは人が少ないですよ!」
 無理矢理声を出したのでひっくり返ってしまったけれど、なんとか写真を撮りましょう、まで言い切って、走り出す。これ以上近くにいたらどうにかなってしまいそうだった。危ない。振られる夢を見て、あんなにショックを受けたというのに、懲りずにまだ口にしそうになるなんて。
 无限大人は近くの人に声を掛けて、桜の前に並んだ私と小黒の隣に駆け寄ってくる。三人で撮った写真は、ちぐはぐに見えた。親子に見えたら――、なんて、ずうずうしい考えだ。
「小黒、ここに立って。うん、いい構図!」
 桜の前で笑う小黒をたくさん撮って、无限大人と小黒の二人も撮って、走り回って転んでしまい、ぱっと起き上がっておかしそうに笑う小黒と一緒に笑って、楽しい気持ちで覆い隠す。今は、何も考えないで。ただ、楽しもう。