薄紅の花が咲き乱れていた。桜とは少し違う気がする。これが桃の花だろうか。
「風が出てきたな」
花を揺らしていた風は彼の髪を揺らして吹きすぎていく。
私は彼の横顔から目を逸らせない。細い髪がさらさらと波打ち、光を反射して艶やかに光る。彼は私の視線に気付き、ゆっくりと振り返る。深い色の瞳が私を映す。鼓動が高鳴る。
伝えたい。気持ちばかりが溢れてきて、止められなくなる。今、伝えなくちゃ。もう二度と言えない気がする。伝えなくちゃ、後悔する。彼は静かな瞳で私を見つめ返している。このまま私の気持ちが伝わってしまえばいいのに。ううん、それじゃだめだ。ちゃんと、言葉にしないと。
「无限大人」
ひとたび口を開くと、その言葉はするりと唇から零れた。
「あなたが好きです」
彼の柳眉が微かに顰められる。その表情に、心臓が凍り付く。もう後戻りはできない。ああ、だめ。その先の言葉を聞きたくない。しかし無情にも彼は口を開く。
「すまないが……」
そこで私は飛び起きた。まだ心臓がどきどきしている。嫌な汗をかいたシャツの首元を引張って喘ぎ、呼吸を整えようとするけれどうまく行かない。
――悪夢だ。
手のひらで顔を覆い、なんて夢を見てしまったんだろうと呻く。うう。生々しかった。まだはっきりとあの光景が瞼の裏に焼き付いている。告白してしまった。そして、振られてしまった。夢とはいえ、あまりにもリアルで、ダメージもかなり大きい。うまく行くとは思っていないけれど、それにしたって、夢の中でくらい夢を見られないものか、私。こんな現実的な反応、しなくてもいいじゃない……。
アピールしなくちゃと思って気が焦ってるんだろうか。北京で過ごして、近づけた気持ちになって、その気になっちゃったんだろうか。自分の有頂天になっていた部分を叩きのめされた気がして、気落ちする。
いやな気分を引きずったまま館の職場に向かう。今日は深緑さんの住む候補の湖に、現地まで行ってくれた妖精が報告をくれる。その情報を、深緑さんに伝えて、気に入ってくれれば仕事完了だ。
「これが周辺の調査書と、写真です」
「ありがとうございます」
予定通りに調査を終えてくれた調査員に感謝しつつ、書類に目を通す。写真を見る限りは、よさそうな場所だ。
「ただ、滝はなかったですね。あと、桃の花」
「そうですか……」
完璧とはいかなかったか。でも、人が近づけなさそうという大事な点はクリアしている。とりあえず、お伺いを立ててみよう。
午後になって、深緑さんが訪ねて来た。今日は泣いていないけれど、悲しそうな表情は変わらない。
「館って騒がしくって……。落ち着かないわ……」
長い髪を指に絡めながら、深緑さんは不満を零す。
「食べ物は美味しいけれど……。馴れ馴れしく声をかけられたりするし……疲れる……」
「深緑さんは、ずっとおひとりで過ごしていたんですか?」
「そうね……。小鳥たちの歌を聞いたり……。魚たちの舞を見て……」
「それじゃ、今の環境にはなかなか慣れないですね」
「そうなの……。それで、どんな湖なの?」
深緑さんに求められて、さっそく本題に入ることにした。写真を机の上に並べて、調査書をかいつまんで話す。
「周囲の地形から、人が入ってくることはほぼないそうです。水温は五度から十度ほど。水辺にはいろんな植物が生えています」
「ちょっと狭そう……」
深緑さんは写真を指先で摘まむようにして持ち上げ、眺めた後、落胆したように長い睫毛を閉じた。
「なんだか暗いし。滝もないし……ここじゃないわ」
「そうですか……」
もう少し話してみたけれど、深緑さんの心には響かなかったようで、候補地として適さないと結論付けられた。
「すみません。もっといいところ、探しますね」
でもまだ一か所目だ。きっと、ちゃんと探せば見つかるはず。私は気合を入れなおした。
「できれば早くお願いね……」
深緑さんは、哀愁の漂よう声音でため息交じりにそう言った。