33.紫禁城

「北京だと……やっぱり紫禁城を見てみたいです……!!」
 无限大人と二人きり、という緊張感が、北京にいる、という興奮にじわじわと中和されていく。見るべき場所といえばやはり故宮博物院だろう。明や清の時代に皇帝が住んでいたという宮殿。ぜひ、この目で見てみたい。
「では、そこへ行こう」
 无限大人はすぐに承諾してくれて、館を出て街を移動する。少し遠いとのことなので、タクシーに乗った。北京の街並みを眺めながら十数分で目的に到着する。たくさんの観光客が中に入るのにぞろぞろと移動しているところに私たちも紛れ込んで、午門をくぐった。大きな広場の中央を水路が流れている。その向こうに見えるのが太和殿だ。
「あそこに玉座がある」
 人ごみをすいすいと進んでいく无限大人の後を追いかけて、太和殿の中に入る。しばらく行くと、人が集まっている場所があった。太い柱が数本立っている中心部に、台座があり、その中央にあるのが玉座だろう。今は色あせているけれど、実際に皇帝が座っていたときは、さぞや鮮やかだったのだろうと思わせる。
「ここに来るのは久しぶりだな」
 无限大人が玉座を見上げながらぽつりと言う。前にも観光に来たんだろうか。
「どれくらいぶりですか?」
「四百年前だ」
「よ!?」
 驚く私に、彼は笑ってみせる。
「昔、皇帝の下で働いていたことがあるんだよ。すぐに退官したけれどね」
「え……!? そ、そうなんですか……」
 あまりにスケールの大きい話で、すぐには飲み込めず、ろくなリアクションができなかった。无限大人は懐かしむでもなく、後ろがつかえているからとすぐに移動してしまう。皇帝の下で働いていたって、皇帝って、あの皇帝? すごく偉い人だったってこと? でもすぐにやめちゃったって、どうして? 疑問が続々と湧いてくるけれど、直接聞いても頭に入ってこなそうで、すぐに訊ねられなかった。この建物が壮麗だったころに、この人がいたというのが、うまく想像できない。歴史の生き証人。改めて、すごい人なんだと思う。私は、とんでもない人に恋しちゃったのかもしれない。
「小香、あまり離れると逸れてしまうよ」
「はい、今行きます」
 立ち止まって、振り返ってくれる彼の目に、確かに私が映っている。たとえ一瞬だとしても。この人は今この瞬間に、私の隣にいてくれている。やっぱり、すごい奇跡だ。それを歓びこそすれ、後悔することなんて、きっとない。
「无限大人、昔のお話、もっと聞きたいです」
「覚えている限りでよければ」
 彼は中を歩きながら、ぽつぽつと解説をしてくれた。話を聞くほどに、時代劇の中でしか見られないようなことを、彼は実際に体験したのだと理解する。
 太和殿を出て、保和殿に入る。ここでは宴が行われたり、科挙の最終試験の会場になったりしたそうだ。
「当時のご飯ってどんなだったんですか?」
「肉料理が多かったかな。羊や豚や……。粉ものもある。特に肘子が好きだった」
「肘子……」
 まだ食べたことないものだ。メモしておこう。今もある料理なのかな?
 保和殿の後ろには乾清門があり、そこをくぐると乾清宮が見えた。中には「正大光明」の扁額が飾られていた。
「ここに皇帝が住み、政務を執っていた」
「こんなところでお仕事してたんですね」
 その奥には交泰殿、さらに奥には坤寧宮がある。皇后の寝宮だそうだ。こんなに大きな部屋で眠れるんだろうか、と不思議に思う。
 そこを出て欽安殿を通り過ぎると、ようやく神武門、出口だ。
「すごく大きかったですね……」
 ここまで歩くだけでずいぶん疲れてしまった。神武門から振り返ると、入口の方は霞んで見えないくらいだった。この距離を、二人で歩いていたんだと思うと、高揚してしまう。无限大人は、四百年前もここにいたんだ……。
「すっかり変わってしまったな」
 彼はそう言って眺めに背を向け、紫禁城の外へ出た。
「そろそろ腹が減らないか?」
「はい」
 彼の提案により、ご飯を食べてから館に戻ることになった。