32.燕京の館

「では、行こうか」
 そう言う无限大人の前には文様が刻まれた壁がある。転送門というのはそういうものだと聞いたことはあるけれど、実際に目にするとこれが門だとすぐには認識できない。
「使うのは初めてか」
 緊張気味の私に気付いて、彼はそう訊ねてきた。はい、と頷くと手を差し出される。
「大丈夫だ。捕まって、まっすぐ歩けば通り抜けられる」
「はわっ……」
 驚きすぎて変な声が出てしまった。手に捕まれと……? 一気に不安が消し飛んで、別の意味で緊張に身体が固まった。手に触れるなんて、とんでもない。でも、彼は手を差し出したまま待っている。このまま待たせるわけにはいかない。ええい!
 思い切って無心で手を掴むと、優しく引かれ、彼が壁の中に吸い込まれていく。ああ、ぶつかる、と思わず目を瞑ったけれど、なんの衝撃もなく、すう、と肌に風を感じ、気付いたときには景色が変わっていた。
「うわぁ……」
「ここが燕京の館だ」
 すんなりと手が離されて、思わず胸元に自分の手を引き寄せる。もう暖かかったかどうかも覚えてない。大きくて硬かった気がするけど、何も思い出せない。无限大人と手を……繋いでしまった……。
 慣れた足取りで无限大人が歩き出すので、後をついていく。やがて大きめの部屋に辿り着き、そこへ入っていった。
「あら、いらっしゃい、无限」
「邪魔をする」
 部屋の中には数名の妖精と、特に美人な女性の妖精がいた。女性は私を見ると、にやりと目を細めた。
「ちょっと、こんな可愛い子連れてくるなんて聞いてないわよ! 案外やるじゃない、あなたも」
「小香を連れて行くと、楊から連絡があったと思うが……」
 肘でつつかれ、无限大人は不可解そうに眉を顰める。たぶん、彼女がしている話はそういうことじゃないと思います……。冗談が通じず、彼女はあからさまに溜息を吐いた。
「ほんと、つまらないのよそういうとこ。小香ね。聞いてるわ。私は夏。よろしくね」
「よろしくお願いします、夏さん」
 夏さんに座るよう勧められて、お付きの人がお茶を出してくれた。
「それで、何を探してるの?」
 无限大人の話が済んでから、と思っていたけれど、夏さんの方から話を振ってきたので、私は深緑さんの要望を伝えた。夏さんはううん、とたおやかな指を顎に添える。
「そうねえ。ぴったりとはいかないけど、いくつか思い当るところはあるかしら」
「本当ですか?」
 夏さんが指示をすると、お付きの妖精が大きな地図を持ってきた。
 それを広げて、この辺り、と夏さんが指を差す。
「確か綺麗な湖があったと思うわ。滝があったかどうかわからないけれど。観光地からも外れているし、人間もめったに足を踏み入れないはず」
「よさそうですね……!」
 地図を見る限りでは、彼女の希望に適いそうだった。実際に見てみなければわからないけれど、人が足を踏み入れないというだけあって、さすがに現地に行くのは難しそうだ。妖精だったら、こんな道も問題なく行けるだろうか。
「帰ってもう少し周辺の状況を確認してみます。ありがとうございます!」
「お役に立てたならなによりよ」
 こんなにすぐに当てが見つかるとは思っていなかったので大収穫だった。
「では、少し話があるから待っていてもらえるか」
 次は无限大人が用事を済ませる番だった。道はわかったから一人で帰れそうだと思ったけれど、彼はちょっといたずらっぽく笑ってみせた。
「せっかく来たから、街に降りようと思っているんだ。付き合ってくれないか」
「……はい!」
 まさか誘ってもらえるとは思わず、大きな声で返事をする。夏さんが笑っていた気がするけれど、嬉しさは隠しきれなかった。