20.心の片隅に

 部屋を出ると、楊さんと誰かの話す声が聞こえて、どきりとする。
 无限大人だ。廊下に置かれた椅子には誰も座っていない。小黒は今日は来ていないみたい。
「それでは」
 椅子から立ち上がる音がして、二人が外へ出てくる気配がした。息をつめて、出口を見つめていると、先に无限大人が姿を現した。
「おや、小香」
 无限大人が私に気付いて足を止め、楊さんが私の名を呼んだ。私は二人に頭を下げる。
「小香、彼を出口までお見送りしておくれ」
「はい」
 楊さんの言いつけにどきりとしつつ、表面上は平静を保って、无限大人の前を歩く。しばらく無言で歩いていると、ふいに无限大人が口を開いた。
「この前は、すまなかった」
 无限大人が突然謝罪を口にするので、驚いてしまう。なんのことを言っているんだろう。
「不躾なことを言ってしまって、気を損ねたかと」
「あ……いえ! そんな、とんでもないです!」
 そうか、あのときのことを言ってるんだ。私が逃げるように飛び出しちゃったから、気分を悪くしたと思われたんだ。
「私こそすみません。慌てていて……。无限大人は悪くないんです。私が、なんていうか、過剰反応しちゃったというか……」
 うまく説明できず、口の中でもごもごと言う。でも、ちゃんと誤解を解かないといけない。
「に、似合ってるって言ってもらえて……とても嬉しかったです。嬉しすぎるくらい……。それでどうしていいかわからなくなったというか……。とにかく、いやだったんじゃないんです。嬉しかったのは本当ですから」
 何度も繰り返して、念を押す。无限大人は不思議そうな表情をしていたけれど、悪いことを言ったわけじゃないというのはわかってもらえたと思う。
「実際そうだと思ったから。他の人にも言われただろう?」
「はい。同僚とかお客様とかに……でも、无限大人は特別ですから……あっ」
 言ってから慌てて口を塞ぐ。もう遅いけれど。
「あっ……と、へんな意味ではなく……特に嬉しかったというか……ああ……」
 何を言っても誤魔化せないどころかだめそうで、しどろもどろに力なく声を漏らす。今日の私、だめすぎる。 
「すみません。おかしなことばかり言って……」
「いや、謝ることはないが……」
 ぐだぐだな私に、无限大人も何と言っていいかわからなそうな顔をしていたけれど、眉を顰められることはなかった。
「嫌われたのでなければ、よかった」
「な……私が无限大人のこと嫌いになるなんて、万が一にもありませんよ!」
 ほっとしたように言われて、急いで否定する。
「むしろ、私の方が変なことばかりしているから呆れられそうです……」
「そんなことはないよ」
 无限大人は優しくそう言ってくれたけれど、もう少しちゃんとして、いい印象を与えられるようになりたい。いままではなんとかできていたのに。これで水の泡か。
「ところで、今度小黒が和食を食べてみたいと言っていたんだが。子供を連れて行けるような店を知っているかな」
「あ! はい。いいお店あります!」
 話題を変えてくれた話にすぐに気分が高まって、食い気味に答えてしまった。
「では、また連絡するよ」
「お待ちしてます」
 无限大人は軽く頭を下げて、戸を開け、外へ出て行く。私は戸が閉まったあとも、しばらくそこに佇んでいた。また一緒に食事ができる。連絡が来るまで、そわそわと落ち着かないんだろう。でも、そんな時間もとても楽しい。あれから、悪いことを言ってしまったと、ずっと私のことを気にかけてくれていたのかと思うと、それだけで嬉しくなってしまう。少しだけでも、彼の心の片隅に、私の存在はあるのかな。もしそうなら、これほど幸せなことはない。
 充分すぎることだ。これ以上なんて、望んだらきっと罰が当たる。
 これで充分なんだ、と自分に言い聞かせた。