13.火照り冷めず

「日本酒か」
 メニューを見ながら、彼がぽつりと呟く。
「せっかくだ、試してみたい」
「じゃあ、頼みましょうか」
 飲みなれた甘口のものを選び、店員さんに注文する。店員さんが下がったあと、少し沈黙が下りた。
「あの、お酒は飲まれるんですか?」
 話題が欲しくて口を開き、定番の質問だったかな、と思ったあとでも知りたいことだな、とも思った。彼はお酒をどんな風に嗜むんだろう。
「ああ。たまに」
「そうなんですね。私も、たまに……」
「日本酒を?」
「そうですね。あとは、ワインとか。暑いときはビールとか」
「そうか。ビールは私もたまに飲む」
「あんまり量は飲めませんけど……」
「気持ちよい程度が一番いい」
 彼は肯定するようにそんなことを言ってくれた。ビールも飲んだりするんだ、というのが少し意外で、彼のことをまたひとつ知れた、と嬉しくなった。
 ほどなくして店員さんが小さな瓶とお猪口を持ってきてくれた。私が瓶を手に取って、彼のお猪口に注ぐと、彼はそれをちょっと持ち上げて言った。
「乾杯」
「か……乾杯」
 お猪口を軽く合わせると、たぷんと中の透明な液体が揺れ、雫が溢れそうになった。
 彼はくいっと一口で飲み干す。私は舐める程度にしておいた。
「甘いが、すっきりしているな」
 もともと、それほど弱くはない方だけれど、今日は緊張しているせいか全然酔う気配がない。彼も強い方なのだろう、涼しい顔をして杯をあけている。
「食べないのか?」
「あ、ちょっとお腹いっぱいで……」
 私のお皿に残っているお寿司を見て、彼は箸を伸ばしてきた。
「では、もらおう」
 なんでもないような顔で一貫を一口で食べる彼に、かあと顔が熱くなる。なんだか、態度がずいぶん気安いような気がする。彼にとっては、こういうものなのだろうか。でも、もしかしたら少しだけでも近づけているのかも、なんて期待してしまう。
「これを頼もうか」
 彼は私の残した分をぺろりと平らげてしまい、またメニューを見て次を頼み食べ始める。うーん、単にお腹が空いてるだけなのかも……。私は小気味よく食事を続ける彼をこっそり眺めながら、お酒をちびちび飲んでいた。そんなに飲んでいたつもりはないけれど、いい感じに回ってきて、気分がよくなってくる。
「大人は、食べるのお好きなんですね。美味しそうに食べるから、見ていて気持ちいいです」
「そうか?」
「仙人様って、もっと浮世離れしてるイメージがあったから、なんだか親しみを感じて、思ったより近くにいるんだな……って思えて……」
 機嫌よく回る口のまま話していたけれど、結局何が言いたいんだっけ、とわからなくなる。
「だから……えっと……ご一緒できてうれしいです」
 お冷の入っていたグラスを両手で抱えて、なんとか言葉を紡ぐ。もう水を飲んでしまって、溶けかけの氷しか入っていない。彼は一拍置いて、柔らかい口調で答えた。
「そうか」
「お忙しいでしょうけど、また、誘ってもいいですか?」
 少し気が大きくなって、勢いに乗って思い切って訊ねる。断られるかも、という不安があとから湧き上がってきた。期待と焦燥に駆られどきどきしながら答えを待つ。
「もちろん」
 彼は簡潔だけれど、冷たくはない、優しい声音でそう答えてくれた。
 ぱっと目の前が明るく晴れたような気持ちで身体全体がぽっと温かくなった。
 お酒を呑んだから、だけじゃない温かさ。
 感極まって目が潤む。
 何も言えないままただその答えを耳のうちで反芻しているうちに、彼はもうすっかり仕度を整えていた。
「では、そろそろ帰ろうか」
「あ、待って下さい! 大人は座っててください。今日こそは私が払いますから!」
 私は立ち上がろうとする彼を慌てて止め、走って会計に行く。今度ばかりはこちらが払わなければ気が済まない。会計を済ませられてほっとしていると、入口に彼が立ち、待っていてくれた。
「ご馳走になった」
「いえ。あ、ありがとうございます」
 コートを椅子に忘れていたらしく、彼が差し出してくれるのを受け取る。熱くなった頬に外気が冷たく触れて来た。
「では、今日もありがとうございました」
「待ちなさい」
 お店の前で別れようとすると、引き留められた。
「家まで送ろう」
「え!? いえ、近いので、大丈夫です」
「歩いて帰るのか?」
「はい」
「酔っているだろう。いつも以上に無防備で、心配だ」
 そう言われて、かっと頬が熱くなる。確かに、コートを忘れたり、言い訳できないところはあるけれど……。
「そんなに酔ってませんよ! ほら、ふらふらしないで歩けます」
「頬が赤いよ」
「うっ……」
 じっと顔を覗き込まれて、何も言えなくなってしまった。これは、酔ってるせいじゃなくて、たぶん、あなたのせいもあるんですけれど……。
「どっちだ?」
「こっちです……」
 これ以上議論する気はないとばかりに歩き出そうとするので、私は諦めて道を示した。せっかく少し静まっていた心臓が、またうるさく騒ぎ出す。だって、すぐ隣を彼が歩いている。私に歩調を合わせてくれているのか、その速度はとてもゆっくりだった。