部屋で書き写しをしていると、誰かが部屋にやってくる足音がして、雪梅は手を止めた。
「雪梅、老君がいらっしゃいましたよ」
雪梅が身を寄せている館の館長が、老君を伴って部屋の戸を叩いた。
雪梅は筆を置き、戸口まで老君を出迎えに行った。
「老君、おいでくださって嬉しいですわ」
「ご無沙汰していたね、雪梅」
老君の後ろには、若い青年の妖精と、人間の少女がいた。少女は雪梅と目が合うと、にこりと親し気に笑った。
三人を部屋に通し、椅子を勧める。全員が座ったところで、老君が改めて彼らを紹介してくれた。
「彼は玄離。私の用心棒のようなものだ」
最初に紹介された妖精、玄離は「よう」と気軽に片手を上げて、若紫色の瞳を雪梅に向けた。雪梅は頭を下げて礼をした。老君は反対隣に座って紹介されるときを今か今かと待っている少女の方を示した。
「こちらは李清凝。私の弟子だよ」
「まあ、老君のお弟子様」
雪梅は丁寧に礼をして、名乗った。
「清凝様も、治癒系でいらっしゃるのね」
雪梅は彼女の霊質を感じ取っていた。そのため、老君が人間の少女を弟子にしていることも驚くことではなかった。彼女の資質は、きっと雪梅より優れている。
「あ、清凝でいいよ! 私も雪梅って呼んでいい?」
丁寧に対応された清凝は、気安く雪梅に呼びかけた。年の頃は雪梅より若く、十四、五に見える。雪梅は手を膝の上に下ろすと、微笑み返した。
「ええ、清凝」
「老君にあなたのことを聞いて、会わせてほしいって私が頼んだんだ」
ね、と老君と目を合わせる仕草は師弟というよりはもっと親しい様子だった。清凝には、堅苦しい空気は似合わないようだ。
「雪梅は、どれくらい館にいるの?」
「もう数十年になるわ」
「数十年!?」
雪梅の今の見た目は、人間で言えば二十歳前後と思われる。妖精が長寿なことは知っているが、やはり驚いてしまう清凝だった。
「それまではどうしてたの?」
「初めは森で暮らしていたの。そのあとは、人里にいたわ」
「森かあ。ねえ、雪梅も治癒系なんだよね」
「ええ」
話が深まろうとするとき、老君がふと立ち上がった。
「私はここの館長に話があるので、少し外すよ。玄離、行こう」
「おう。じゃ清凝、あとでな」
「ばいばい狗哥!」
手を振り退出する玄離に元気に手を振り返す清凝の様子は、まるで兄妹のようだ。妖精と人間が自然と笑い合えているその姿に、雪梅の胸がつきんと痛んだ。
「それで、そうだ。雪梅は森でも治療をしてたの?」
「けものたちや妖精を診ていたわ。薬草についてもそこで学んだの」
「そうなんだね! 私は最初はお父さんに習ってたんだ。そのあと、ちゃんと学校にも通ったんだよ」
「学校? そこでは、どのようなことを?」
「たとえばねー」
清凝の話してくれた授業の様子は、初めて聞くことが多く、雪梅はとても刺激を受けた。代わりに、雪梅が森でのことや、街にいたころのことを話すと、清凝は興味深そうにいろいろと質問をしてきた。
「こうしてみると、結構診療方法も治療方法も違うんだね」
清凝は関心してほうと溜息を吐いた。たとえば清凝の扱う鍼灸術は雪梅は行ったことがなかった。
「老君は、治癒系は少ないって言ってたから、こうして雪梅と会えてうれしいな!」
衒いのない笑顔を向けられて、雪梅も頬が緩んだ。街にも医者はいたが、清凝ほど病に精通した者はいなかった。こんな風に話ができる相手に出会えたことを、雪梅もとても貴重なことのように感じた。街ではいつも人に囲まれていたけれど、自分とは違う種族であること、客として扱われていたこと、年の近い子供もいなかったことで、孤独を深めていた。そのときの寂しさが、今清凝に触れたことで解けていくような思いがした。
「私もうれしいわ。ね、清凝。またこうして会えないかしら」
「私もそう思ってたの! 師父に連れてきてもらうね」
清凝は雪梅の手をぎゅっと握って約束してくれた。
そのとき、伺いもなく戸が開け放たれて、甘い匂いが部屋に満ちた。
「清凝! 雪梅! 桃もらったぞ桃! 食べようぜ!」
騒がしく入ってきて卓子の上にどさっと桃を置いたのは玄離だった。その後ろから、老君が困ったような笑顔を浮かべて入ってきた。
「まだ話の途中だろうと止めたんだけどね」
「ちょうど区切りがいいところだったよ! わあ、美味しそう!」
清凝は元気に答えて、玄離から桃を受け取るとかぶりついた。
「全部食べてはいけないよ。持って帰るんだから」
老君のその言葉が二人の耳に入ったかどうか、雪梅にはわからない。
木の枝から弾むような小鳥の鳴き交わす声が聞こえて、雪梅は瞑想から醒めた。小鳥たちは雪梅の部屋のそばに生えている木の上で少し休み、またどこかへ飛んで行ってしまった。
――誰かが怪我をした、と告げる声はもう聞こえない。
館に来てから、雪梅は薬師として働いている。修行が一段落つくまでは、治癒術を使うことを老君に止められていた。そのため、今は修行を中心に、それ以外の時間で薬草について学び、薬を煎じている。
あれから、力を使うことが少し怖くなったままだ。
傷ついた身体を癒す、ただそれだけの力のはずだった。しかし、それが齎した結果は街の炎上だった。自分の力がもとで争いが起きてしまうなど、森にいたころは考えたこともなかった。ずっと森にいれば、こんなことにはならなかったのだろうか。いや、やはりどこかで人間に見つかり、同じことになっていただろう。もっと悪かったかもしれない。広く複雑な世界に対して、雪梅はあまりに無知だ。
妖精会館の妖精たちは、それぞれの理由で、この館に身を寄せていた。来てすぐに旅立つものもあれば、長く留まるものもいる。人間との付き合い方も、様々なようだった。
雪梅が働いている薬屋は、妖精の主が人間に対して商っている。館を維持する資金のひとつにもなっていた。館の者が人間と付き合うとき、決して妖精であることは明かさない。それは館の規則のひとつでもあった。
雪梅は表には出ず、裏方として指示された薬を煎じるのが仕事だった。雪梅の他にも二人、同じ仕事を任されている妖精がいるが、皆治癒系ではなかった。老君には治癒系であることを明かさないようにと言われている。雪梅自身も、積極的に知ってもらうという気持ちはあまりなかった。
けれど、小鳥の鳴き声を聞くと思い出す。毎日のように患者を診ていたときのことを。身を削って、治療に当たっていた日々を。
雪梅が力を使えば、それだけ病に苦しむ者が減る。そのために、一心に力を使っていた。だから、それをまったくしていない今、時折不安になる。こうして修行をしている間にも、病に苦しむ人は大勢いる。その人たちを救わずして、なにが修行なのか。
ある時、老君に心痛を訴えたことがある。
「老君。私は何もせずにいてよいのでしょうか」
「何もしていないということはないよ。君が今すべきことが修行だというだけだ」
「けれど……。時折、声が聞こえる気がするのです」
「恨み言かな」
「……なぜ助けない、と」
そう言って俯く雪梅に、老君は含めるように諭してくれたものだった。
「その声はきっと一生聞こえるだろう。あなたは傷ついたものを見捨てられない。だが、いくら力を持っていても、すべては救えない。私だって同じだよ」
雪梅ははっとして見開いた目を老君に向ける。老君は穏やかに続けた。
「すべてを救おうとしなくていい。あなたは必要な人に、必要な分だけ施す術をもう知っているね」
街では、あまりにたくさんの人に求められて、とても一度には対応できなかった。だから、小鳥に病の重症度を調べてもらい、順番を付けた。
「それでいい。自分を責める必要はないんだよ」
「……はい」
すぐに納得して気にならなくなる、ということはなかった。だが、老君の言葉を忘れないよう、雪梅は胸に刻み込んだ。
雪梅は組んでいた足を解いて、立ち上がり、医書を紐解く。清凝はどうしているだろうか。彼女は老君の霊域である藍渓鎮の中で、修行をしている。彼女は、この問題にどう向き合っているのか、話したいと思った。
老君が来たのは翌日だった。今回は清凝も玄離もおらず、一人だ。
「修行は順調のようだね」
老君は千里眼を持ち、遠くからでも雪梅の様子を見ることができる。また霊質にも優れているので、雪梅の状態をすぐに見抜いた。
「この分であれば、そろそろいいだろう」
そう言って老君は切り出した。
「雪梅。森に帰りたいかい?」
雪梅は老君の顔を見上げ、少し間を開けてから頷いた。
「そうか」
「ここではとてもよくしてもらっています。ずいぶん仕事にも慣れました。けれど、森が恋しい思いは変わりません」
「そのようだね」
では、と老君は姿勢を正すので、雪梅も背筋を伸ばした。
「修行は終わりだ。いつでも森に戻っていい」
「……ありがとうございます」
雪梅は深く頭を下げた。
「ただ、やはり治癒系であることは明かさない方がいい。人間だけでなく、妖精もその力を求めるものがいるから」
「妖精も……」
「長生不死の方法だからね。私も気を付けて見守っているが」
老君は雪梅の表情を注意深く見つめる。もう一つ、治癒系について伝えることがあったが、伝えるべきか迷っていた。
「力を隠すということは、以前のようにたくさんの治療ができなくなるということを意味する。薬草を用いた対処でも充分かとは思うが、やはり恨み言を言われると思うかい」
雪梅はまっすぐに顔を上げて、老君を見つめた。
「……隠していて助けられない命があるなら、私は力を使うことを惜しまないでしょう」
「……ええ。あなたはそういう人だ」
目の前にある命を見捨てられない。迷わず答えた雪梅に、老君はまだ伝えないことに決めた。
死者の蘇生。その力を求めるものは、不老不死を求めるものと同じくらい多い。その大きすぎる力を背負わせるには、雪梅の肩はあまりに細く、心許ない。
自分の力で助けられるものがいるなら、すぐにも命を投げ打つだろう。
これまで出会った治癒系の中にも、そういう性質のものがいた。その最期は悲痛だった。雪梅には、自分の命以上に他者の命を重んじている。自分以上に、彼女の命を惜しむ存在が現れてほしいと願った。そして彼女に、自身の尊さを知ってほしいと。
「もしあなたが仙になったとき、さらなる力を得ることができる。いつかそのときが来たら教えよう」
「はい」
老君はさて、と身体の力を抜き、目元を柔和に和ませた。
「あなたがいなくなると寂しくなるね。清凝も」
「お別れを言いに伺いたいですわ」
「そうだね。旅立つ前に、また連れて来よう」
「はい」
「何かあったらすぐに館を頼りなさい。私はいつでもあなたを待っているから」
「ありがとうございます」
雪梅の瞳が潤む。優しいこの人のそばを離れることが辛かった。ずっと彼のそばで、仙になる修行に明け暮れる日々もいいだろう。けれど、雪梅はそれを選ばなかった。何より、故郷の水に触れたい。今の願いはただそれだけだった。仙になるということも、今は考えていない。治癒の力を振るうために必要なだけの霊質は蓄えられたはずだ。それもあまり使わないようにしないといけない。だから当面はそれで充分だろう。
小鳥の鳴き声が遠くに聞こえ、枝から飛び立つ音がした。