第三話 仔

 雪梅が故郷の森に帰ってきたのは、秋に入ろうという少し風が冷たくなってきた時期だった。
 草木の色が少しずつ褪せてきて、瑞々しさが失せ、枯れた冬へ向かおうとしている。
 雪梅は故郷の空気を胸いっぱいに吸い込んで、忽然として吐き出した。帰ってきた。今はその思いでいっぱいだった。
 老君の言いつけに従って、以前いた場所よりも、より深い場所で落ち着くことにした。まだ鹿仙女の名前を覚えているものがいるかもしれない。人里から少しでも離れておくのがよさそうだった。
 ある日、雪梅は一羽の兎の仔を見付けた。
 兎は弱っていて、茂みの影に蹲り、小さく呼吸をしていた。
 親兄弟の姿は見当たらない。おそらく、体力が足りずついていけなくなって置いて行かれたのだろう。怪我はしていないようだった。大きな病もない。ただ、生きる力が弱まっている。
 雪梅は兎のために食べ物を探してきて、与えてみた。初めは少し食べたが、咀嚼するのも、消化するのもたいへんな負荷のようで、すぐに食べるのを止めてしまった。雪梅はその傍に寄り添う以外にできることがなかった。せめてこの手に血が通っていれば、温もりを分け与えることができるのだが。
 兎は日に日に弱っていった。家族を探してみたが、見付けることはできなかった。母兎は、この仔が長く生きられないことを見抜いていたのかもしれない。雪梅は兎の鼓動が止まるまで、そばにいた。
 兎の小さな心臓は、冬が来る前に力尽きた。
 生命力を失った薄汚れた身体の前に、雪梅は項垂れる。
 何もしてあげることができなかった。
 怪我や病であれば治してあげることができるのに、根本である生気がなければ、雪梅は無力だ。生きる力そのものを活性化することはできない。
 やがて来た冬を、雪梅は一人で迎えた。
 雪に覆われる森を見下ろして、その下で寒さをやり過ごそうと縮こまっているけものたちの姿を想像する。寒さに強い小鳥が、雪梅の話し相手になってくれた。小鳥たちは以前のように森中に広がって、怪我をしたけものがいれば雪梅に教えてくれた。雪梅はけものの治療をして、冬を越えた。
 そうして何年か過ぎていき、ある春の日、足を引きずっている小鹿と出会った。近くに家族の姿はないようだ。雪梅は傷を治してやり、家族の元へ帰るよう言ってやった。しかし、小鹿はその場を動こうとしない。
「もう怪我は治りました。どこへでも走っていけます」
 小鹿は悲しそうな鳴き声を出し、雪梅の足元へ鼻を下げた。
「……戻る場所がないの?」
 雪梅が手を差し出すと、そこに少し湿った鼻を摺り寄せてくる。
 雪梅は小鹿を哀れに思い、人の姿から鹿の姿へ形を変えた。
「なら、一緒にいらっしゃい」
 小鹿は喜んで、雪梅の周りを飛び跳ねた。
 それから、雪梅は鹿の姿で小鹿と森を歩き、食べ物を探し、小鳥に頼まれれば治療に向かった。近場であれば小鹿を連れて走っていったが、遠い場所となると、小鹿をその場で待たせて、空を飛んでいった。離れている間、小鹿の様子が気になった。怪我をしていないか、腹を空かせていないか、人間に見つかっていないか。
 治療が終わると、雪梅は小鹿の元へ駆け戻って、元気な様子を見てほっとした。
 小鹿の存在が、雪梅の生活の中心となっていた。
 一年が経ち、小鹿は立派な若い牡鹿に成長した。行動範囲も広がり、もう親の庇護を必要としない力強い姿になった。雪梅は近くに鹿の群れがいることを知ると、彼にそこへ加えてもらうよう伝えた。しかし、彼は雪梅と離れることを渋った。雪梅は人の姿に戻り、彼を諭した。
「あなたは鹿です。私とは違う。同じ種族の中で生きるのがあなたの幸せです。おいきなさい」
 彼はなおも雪梅の方を振り返っていたが、雪梅が頑ななことを悟ると、鹿の群れの方へ駆け出していった。その後ろ姿を見送る雪梅の心に切なさがよぎったが、これでよかったという安堵感もあった。ようやく歩きなれたばかりというような小さなころから成長を見守り、やがて逞しい脚力を備え、健康に育った姿を見ることができて充足感があった。
 数年後、彼は家族を連れて雪梅の前に現れた。美しい牝鹿と、かわいらしい子供たちを、自慢げに雪梅に見せてくれた。
「いい家族を持ったのね」
 雪梅がその鼻面を撫でてやると、子供の頃のように目を細めて、鼻を擦り付けてきた。だが、体格はもう立派な大人だった。仔鹿たちは元気に飛び跳ねていて、若いころの彼を思い出させた。
 それからは、毎年彼は子供を雪梅の元へ見せに来た。
 彼はそうして年を重ね、ついには子供も作らなくなり、老年の身体を重そうにして歩くようになった。
 最期のときには、雪梅のそばで蹲り、動かなくなった。短い息を吐く彼のそばに、雪梅もまた寄り添った。鼻面を撫でても、すり寄る元気もなさそうだったが、濁った目を気持ちよさそうに閉じた。
 そのまま、彼は息を引き取った。
 彼の生気が失われていくのが、雪梅の手を通じてはっきりと感じ取れた。だが、その感覚は兎の仔を看取ったときのように絶望を与えるものではなく、一抹の寂しさと、人生を全うした彼への賛辞にも似た思いを抱いた。
 彼にももう、治癒の力は必要ない。
 そっと彼の傍を離れ、森を見下ろす高さまで飛び上がる。
 森はどこもかしこも命に満ち溢れていた。
「久しぶりだね」
 そんな雪梅の隣に、老君が姿を現した。
 雪梅は驚きもせずにその存在を受け入れる。
「お変わりないようで」
「ああ。あなたも」
 老君は雪梅と同じように森を見渡し、目を細めた。
「ここでの暮らしはどうだい」
「穏やかですわ」
「館が恋しくなることは?」
「正直に申せば、ございます。ただ……私には、ここの空気があっているんだと思いますわ」
「そのようだね」
 老君が地面に降りるので、雪梅もそのあとを追いかけた。
「君はこれからも、いくつもの命を見送ることになるだろう」
「……はい」
「その力を、恨むことはあるかい」
 命を救うという力を持つ責任は、どれほどのものかと、老君は雪梅の細い肩を見やる。言いつけを守り、力を人間や妖精には使わず、隠遁している姿はやはり少し寂しさがある。だが、雪梅は首を振った。
「いいえ。……己の足りなさが歯がゆいくらいです」
「あなたのような心映えのものにこそ、宿る力なのだろう」
 老君は薄く微笑みを浮かべ、雪梅の揺ぎ無い瞳を見据えた。
「もしあなたが信頼できる妖精、もしくは人間と出会えたなら、その力を打ち明けなさい。一人で抱え込む必要はない」
「……はい」
 けれど、そんな相手に出会えるだろうか、と雪梅は疑問を心に浮かべたが、言葉にはしなかった。もし出会えたなら、これほど素晴らしいことはない。
「出会えるよ」
 そんな雪梅の心を見透かしたように、老君は優しく付け加えた。