第一話 禍

 しんしんと降る白い花びらのような雪片が、湖の黒い水面に触れてはしゅんと音もなく溶けていく。冷気を帯びた水滴となった雪片はしゅるしゅると水底に落ちていき、光の届かない薄暗闇で塊となっていく。氷を孕んだ霊力は少しずつ形を大きくしていき、しまいには小鹿の姿を選んで顕現した。
 小鹿は水面に顔を出すと、黒い鼻先で雪の匂いを嗅いだ。
 形をとったばかりの蹄の跡をまっさらな雪の上に残しながら、森の中に入っていけば、息を殺した生き物たちの気配を感じた。

 小鹿――雪梅は僅かな木の実で生を繋ぎ、やがて春になった。
 雪が解けていくのを惜しんだが、その下から若い芽が芽吹き、小鳥たちが歌を歌い始めると、すっかり暖かい風が好きになった。
 小鳥やけものたちと遊ぶようになり、駆ける範囲が広くなると、さまざまな妖精にも出会うようになった。ある日怪我をした妖精に出会い、雪梅はその怪我を癒してやって、自分にその力があることを知った。
 それからは、小鳥たちが治療を求めているものの居場所を雪梅に教えると、雪梅はどこにでも行って彼らを助けるようになった。
 すると雪梅の存在は森の外へも届くようになり、森の近くに住んでいた村の子供が雪梅を探してやってきた。
「鹿仙女様、私のお母さんを助けてください。お母さんは病気なんです」
 小鳥を通じてその願いを聞いた雪梅は、初めて人の姿に化け、十四ほどの少女の姿をとると、夜、その村を訪れた。小鳥の案内で少女の家に行くと、寝台で苦し気に呻いている母親を見つけ、すぐに治癒を施した。朝になると母親の血色は見違えるほどよくなり、少女は久しぶりに暖かい母親の腕に抱きしめられることができた。
 元気になった母親は娘から鹿仙女の話を聞くと、すぐに森にお礼に向かった。その話は瞬く間に村に広がり、村人は森の中に鹿仙女を祀った雪鹿廟を立てた。
 それ以来、病や怪我を持つものはその小さな廟を拝みに来るようになった。備えられる果物を雪梅はけものたちと分け合い、小鳥に病人の居場所を聞いては夜中に治療しにいった。
 やがて広範囲に鹿仙女の噂が広まるようになると、遠路はるばる家族や恩人の回復を願って人々が訪れるようになった。願いを聞いては雪梅はじっとしていられない。どこにでも歩いて行って、治療を施した。
 斎西は今までで一番森から遠かった。それでも雪梅は雪鹿廟を詣でた一家の家へ行き、その家の次女を救った。しかし連日力を使っていた上、長旅の疲れもあって、雪梅はその日のうちに森へ帰ることができず、道の途中で座り込んでしまった。
 空が白み、見回りの兵が雪梅を見付け素性を質した。雪梅は名乗る名前もろくになく、兵士は雪梅を怪しんだ。しかし、治療を受けた一家が「鹿仙女が現れた」と触れまわると、兵士たちは彼女こそその鹿仙女に違いないと思い、彼らの主君に報告することにした。
 斎西を治めている秦汪龍は、これを聞いて喜んで雪梅を自分の館に迎え入れた。
「鹿仙女様、ここにはあなたの力を必要としているものがたくさんおります。どうか、彼らをお救いくださるまで、こちらに留まっていただきたい」
 秦汪龍は雪梅を歓待し、一室を与え、広場に廟を造ると約束した。雪梅は体力が戻るまではと、ありがたくこれを受け入れた。
 廟はすぐに立った。森にあった素朴なものと比べると華美すぎるくらいで、雪梅は好ましく思わなかったが、秦汪龍の言った通り、民たちが救いを求めて次々に詣でた。
 雪梅は小鳥たちに病の程度を調べてもらい、症状の重いものから順番に取り掛かることにした。民たちの喜びようはすさまじく、秦汪龍を支持する声はどんどん大きくなり、お供え物やお礼の品で秦の倉庫は瞬く間にいっぱいになった。
 雪梅は目の前の病人の対応で精いっぱいだったが、いつも森のことを気にかけていた。今も森の廟を詣でている人がいるに違いない。だが、斎西の病人もたくさんいる。すぐに帰ることは難しそうだった。治療をできる限り毎日続けているせいで霊力を蓄えることも満足にできていない。治療する以外では、寝ているか、霊力を丹田に蓄えるかしかできなかった。小鳥たちと歌い、けものたちと駆け回った森の日々が懐かしかった。それでも懸命に雪梅は働き、ようやく目途がつくところまでになった。そこで雪梅は秦汪龍に別れを切り出すことにした。
「重症の者はみな治療し終わりました。私は森に帰ります」
「鹿仙女様、そうおっしゃらず、まだまだあなた様のお力を求めているものはおります」
「斎西の救うべきものは救いました。他にも私の力を必要としているものがおります。私はそのものたちの願いを聞捨てることはできません」
「これほど厚く持て成す館は他にはないでしょう。他の場所へ行けば、鹿仙女様の力に頼って大勢が押し寄せ、たちまち廟を埋め尽してしまいます。いかな仙女様といえども、そのお力は無尽蔵ではないはず。私がお助けいたします。どうかここにお留まりください」
 雪梅は何度か秦汪龍に森へ帰ると訴えたが、そのたびに強く引き留められてしまった。斎西にはもう雪梅が診るべき病人はいない。小鳥たちも外の病人について伝えてこないので行くべき場所がわからなくなってしまった。
 秦汪龍は鹿仙女がいなくなるのが惜しくなり、なんとしてでも自分の館に置いておく決意を固めていた。小鳥が雪梅に情報を伝えているのを知ると、外から入ってきた小鳥を矢で落とすように命じていたので伝わるはずもなかった。

 鹿仙女の名前は近隣の曽欣にも伝わっていた。曽欣の諸侯である張朱雲は、息子の呼吸器系の持病を治してもらいたいと考え、秦汪龍に使者をよこした。しかし、秦汪龍から帰ってきた返事はあまり色よいものではなかった。治療してもいいが、法外な治療代を要求してきたのである。秦汪龍の父は張朱雲の父に恨みがあった。そのため、貴重な治癒の力を渡したくなかったのである。
「治療費など、私は求めません。なぜそのようなことをしたのですか」
「鹿仙女様には必要なくとも、凡骨である私にはございます。鹿仙女様のお力は得難い力。無償で誰にでも施していれば、すぐに尽きてしまいます。そうならぬよう、いたずらにこれを求めるような不届きものを事前に抑え込む必要があるのです。それに、かの張朱雲は我が父の怨敵。あなた様が貴重なお力を振るうのはもったいなくございます」
「それはあなた方の理でしょう。私に人間の理は関係ありません。誰を診るかは私が決めることです」
 雪梅はきっぱりとそういって、館を出ようとした。秦汪龍は怒りをあらわにし、兵士に出口をふさがせてしまった。
「これまで歓待してきた恩義を袖にしてそのように砂を掛けるのであれば黙って見送ることはできない。その妖女を捕らえろ!」
 まさか攻撃を受けると思っていなかった雪梅は、たちまち兵たちに抑え込まれ、部屋に閉じ込められてしまった。
 充分な力があれば人間などに大人しく捕まることはなかったが、今雪梅は弱っている。何より、裏切られるなど夢にも思わなかったので、何が起きているのかわからず気が動転していた。待っていれば扉を開けてくれるだろうと、しばらくは休息に専念することにした。
 張朱雲は秦汪龍の返事に怒り、「秦汪龍は仙女の力を独占している」という名目で兵を立て、斎西に攻め込んだ。兵士は家に火を放ち、斎西はたちまち火に飲まれた。
 秦汪龍は慌てて兵士に迎え撃たせたが、張の兵士の勢いはすさまじく、あっという間に隊列を崩されて、館まで侵入を許してしまった。
「何ごとですか」
 ようやく扉が開けられたのは、外が騒がしくなってからだった。
「仙女様、お逃げください……っ」
 雪梅の背中を押して窓の外へ向かわせようとした侍女は後ろから切り付けられ、雪梅の上に倒れ込んできた。雪梅は血を被りながら目を見開き、血まみれの刀を持つ兵士を見上げた。
「鹿仙女様、我らと共に来ていただきます」
 兵士が伸ばした手が瞬時に凍り付いた。雪梅はあふれ出す冷気を解き放ち、館中を一瞬にして凍り付かせてしまった。
 もう、雪梅が斎西から出ていくのを止めることができるものは何もなかった。兵士たちを凍らせたが、火の勢いは強く、すべての民を救うことはできなかった。ほとんど燃えてしまった家並みを振り返り、雪梅は失意に飲まれた。
 力を使い果たし、倒れ込みそうになるその小さな身体は地面に倒れる前に優しい腕に受け止められた。その男は柔和な視線で雪梅を見つめた。黒く長い髪を後ろでひとつにまとめ、耳には藍玉をつけている。
「お疲れ様。よく頑張りましたね」
「あなたは……」
「私のことは老君と。まずは移動しましょうか」
 彼がそう言うと、景色が一瞬で変わった。煤の匂いはすっかりなくなり、落ち着いた様子の旅館の一室のようだった。
「ここは?」
「妖精会館です。私達妖精のために作られた旅館です」
 一人の美しい女性がお茶を淹れ、雪梅の前に置いた。雪梅は暖かなそれを咽喉に流し込むと、口元を袖で覆って泣いた。
「辛かったのですね。まずは回復してあげましょう」
 老君が雪梅の方に人差し指を向けると、雪梅のすり減っていた霊力がたちまち満たされていくのを感じた。
「このお力、それに藍玉盤、あなたが太上老君でいらっしゃいましたか。非礼をお許しください」
「かまいません、顔を上げてください」
 老君は拝礼しようとする雪梅を止め、涙が落ち着いたのを見ると、話し始めた。
「実を言うと、ずっとあなたのことを見守っていました。あなたの力は大きく、どのような影響力を持つかまだわかっていないでしょう」
「そうでしたの。……私は、間違ってしまったのでしょうか」
 ただ癒しを求めるものに手を差し伸べたかっただけだったが、その結果があの火だと思うとやるせない。項垂れる雪梅を、老君は優しさの籠った瞳で見つめた。
「あなたは自分にできることをしました。しかし、まだその力を活かしきるための身体ができていません。修行が必要でしたね」
「はい。私は未熟者でございます。これからどうすればいいのでしょうか」
「森に帰りたいですか?」
「できることなら」
「ですが、あなたの名は大きくなりすぎました。森に帰ったと知られれば、別の軍勢がいくつもあなたを求めてやってくるでしょう」
「森に火をつけられるようなことがあれば私は立つ瀬がありません」
 懐かしい森を思い出し、同時に先ほどまでの惨状を思い返して、雪梅の目に涙が滲んだ。
「しばらくここにいるといい。館は他にもいくつもあり、いつでも行き来することができます。あなたはここを拠点に修行をしながら、求められれば応じて治癒を施すこともできる。どうですか?」
 雪梅は手を合わせて老君に頭を下げた。
「おっしゃるとおりにいたします。お気遣いに感謝いたします」
 そうして雪梅は妖精会館に身を寄せることになった。