「また、連絡してよね」
雨桐に手を振り、キャリーバッグを転がして、エントランスへ向かう。
日本へ帰国する日。準備をしているうちにあっという間に残りの日々は過ぎてしまった。若水姐姐や深緑さん、いろいろな人に挨拶をして回ったら、みんな別れを惜しんでくれた。ここに来て、彼らと出会えてよかったと、改めて思った。一年という短い時間だったけれど、少しでも何かを残せていればいいと思う。本当に帰るんだと思うと、懐かしい土地に思いを馳せる反面、やはり寂しくなった。また、いつでも来れる。そう思うけれど、寂しさは拭えない。本当にいろいろなことがあった。あのとき、こちらに来ることを選択してよかったと心から言える。どの経験も、私にとってはかけがえのないもので、きっと私の一部となって、いままでの私からひとつ皮を脱ぎ捨て新しい身体になれたんじゃないだろうか。
楽しかった記憶が瞼の裏に浮かぶ。
飛行機が離陸し、窓の外の景色はだんだんと遠くなる。
彼から、遠く離れてしまう。
油断すると、また涙が零れそうになる。小黒にちゃんとお別れがいえなかったのが心残りだった。けれど、どうしても連絡をすることができなかった。出来上がったアルバムはスーツケースの中に入れている。でも、まだ見返すことはできない。日本に帰って落ち着いて、時がこの傷を癒してくれたら、いつかは穏やかな気持ちで振り返ることができるだろうか。
そうは思うけれど、今は無理だ。まだ傷跡が生々しすぎて、血は止まっていない。どくどくと流れ続けて、水たまりは広がり続けている。悲しみに囚われている。
彼はきっと、私のことを好意的に見てくれていたと思う。でもそれは恋愛じゃない。私が求めるものを、彼が与えてくれることはない。
私は、彼と恋人同士になることを望んでいたんだろうか。はっきりとはわからない。手を繋いだり、キスをしたり、そういうことができたら素敵だと思う。でも、一緒にいるだけで十分だった。美しいあの人を美しい景色の中で眺められたら、それだけで胸がいっぱいだった。あの翡翠の瞳が私を映して、微笑んでくれたらもうそれだけで心が満たされた。
それだけで、よかったはずなのに。
高望みしてしまった。もしかしたら、なんて思ってしまった。
伝えなければ後悔すると思った。いい結果にならなかったとしても、伝えることが大事だと思った。
でも、こんなことならずっと胸に秘めたまま日本に帰り、もし伝えていたら、と夢を見ているほうが、ずっとよかったのかもしれない。
苦しくて、辛くて、そう考えてしまう。どちらを選んでも、後悔は残っただろう。今は前向きになんてなれない。優しく突き放した声音が何度も耳にリフレインする。
私が何を言おうとしたのか、彼は察していただろうか。それを理解したうえで、あんなに優しく、突き放したのだろうか。あの声も瞳も優しすぎて、とても嫌いになんてなれない。諦めることもできない。私は彼のことが好きだ。何度もそれを自覚する。こんなに傷ついても、その思いだけは揺るがない。好き。大好き。
行き場のない思いが胸の中で木霊する。虚しく響いて膨らんでいく。耳鳴りがする。頭が痛いのは気圧のせいだろうか。泣きすぎたせいだろうか。
背もたれに頭を押し付けて、深く息を吐く。青い空を見ていたら、涙が溢れてきた。白い雲を突き抜けて、どこまでも高く飛ぶ。
私の心も、この青空に溶けて消えてしまえたらいいのに。