楠渓江があるのは温州市だ。以前、仕事でここの館を訪れて、偶然无限大人と会ったことを思い出す。あのときは五馬街で麺を食べて、江心嶼を散策した。情人島という名前に過剰反応してしまって、あのあとは上手く会話できなくなってしまった。あの頃に比べたら、无限大人と一緒にいることに慣れてきて、もう少し落ち着いて話ができていると思う。けれど、思いはあのときよりもずっと深まっている。お別れが近いから、余計に。もう、数か月しかない。この数か月を、大事にしなくちゃ。
「着けてきてくれたんだな」
「はい。あ……无限大人も」
无限大人は、私の髪を見てそう言って、自分の腕を見せてくれた。そこには私の贈った腕輪が嵌っていて、こそばゆい気持ちになった。
この辺りは楠渓江風景区とされていて、川の両岸の景色は緑の長城と呼ばれる。田園風景が広がっていて、辺りにある村も昔からの景観を保っている。蒼坡古村という村に入ることにした。入場料を払わないといけないのがテーマパークのような気持ちにさせる。今日も漢服で来たので、古い作りの家が連なる村の景色に溶け込めそうな気がした。
「こんなところで暮らせたらどんな毎日を送れるんだろうな」
川端にアヒルが放し飼いにされている。細い裏道では犬が眠っていた。
「川のそばって気持ちいいよね!」
小黒が同意してくれる。ふと、小さな子を連れた母親の姿が目に入った。あんなふうに、私も……と、つい考える。夢に終わるかもしれないけれど、夢見ることくらいは許されたい。
「家庭を持つって、考えたことなかったんです」
ぽつりと、なんでもないことのように話し始める。
「そういう相手とも出会わなかったし……。でも、最近はちょっと、いいなって思います」
「小香、やっぱり夫婦になりたいんだ!」
「わっ、いやいや、思ってるだけだから! しーっ!」
小黒に大きな声で言われて、慌てて小黒を抱きしめて遮る。こんなところでバラされてしまったら大変だ。
「内緒だから、言っちゃダメだよ」
「そうなの……?」
「絶対ダメ!」
小黒は不満そうな顔をしたけれど、しぶしぶ頷いてくれた。
「変な話してごめんね」
「ううん、へんじゃないよ」
小黒とこそこそ話していると、无限大人が不審そうな目をこちらに向けてくるので、なんでもないですと手を振る。
「私はのけ者か」
「違うんです! そうじゃないんです」
むすっとする无限大人に駆け寄り、弁明する。そして、川の方を指さした。
「川のそば、気持ちよさそうですよ。歩きましょう」
そう言って无限大人を誘いながら、小黒と手を繋いで歩き出す。川沿いには柳が植えられていた。爽やかな風が吹いている。
「いい風だな」
「そうですね」
无限大人の横髪がさらさらと風に流れる。漢服の裾もひらひらとして、つい見惚れてしまう。柳の葉も同じように揺れていて、一枚の画を見ている気分になった。墨のように流れる川に、緑の柳、そして佇む美しい人。私が画家なら画に描くのに。代わりに、写真にその風景を収めた。あちこちに出かけた分、写真もたくさん溜まったな。
「せっかくだから、プリントしようかな」
そう言ってから、ふといいことを思いつく。
「いままで撮った写真、アルバムにして贈ってもいいですか?」
「へえ、いいね!」
「それは嬉しいな」
二人から色よい返事がもらえたので、さっそくどんなものにしようか考え始める。自分の分と、无限大人たちの分で、二冊作ろう。きっとこちらにもそういうサービスがあるはず。私たちの思い出は消えない。形として手元に残せる。そう思うととても嬉しくなった。
「帰ったらさっそく写真見返して、選ばなくちゃ」
「ぼくも選びたい!」
「じゃあ、今度一緒にやろうか」
「うん!」
小黒の言葉で、そう決まった。それなら、またうちに来てもらうことになるのか。なら、カレーを作って、食べてもらおうかな。楽しみなことが増えて、明るい気分で蒼坡古村を離れた。