妖精が人に紛れて暮らしていることを知っている人間は限られている。
私の職場である館は、そんな妖精たちを助けるための場所だ。
今日も、窓口に何人かの妖精が相談に訪れている。
私はまだここに来て日が浅く、雑用をしながら仕事を覚えているところだ。今も簡単な書類の整理をしていると、入口の方から声がした。すぐに誰かが対応に出ると思ったけれど、なかなか返事はない。皆手が塞がっているみたいだ。書類を置いて、入口へ向かうと、一人の男性が逆光の中佇んでいた。
長い藏青色の髪を、背中で緩くまとめ、水藍色の漢服を着たその人は、翡翠のような深い色をした瞳を、ふとこちらに向けた。
「すまないが」
「あっ……はい!」
ついぼんやりしてしまっていた。私は慌てて彼を出迎え、中へと通した。
「楊はいるか」
「今呼んできますね。こちらでお待ちください」
彼に椅子を勧めて、奥へ向かう。楊さんは一番奥の部屋にいるはずだ。すると、ちょうど部屋から出て来た楊さんと鉢合わせした。
「楊さん、お客様です」
「おお、どなたかな」
「あ……お名前を伺っていませんでした」
楊さんの名前を知っていたから、きっと知り合いだと思うけれど。
「では、お茶を淹れてきてくれるかな」
「はい」
入口へ向かう楊さんと別れて、台所へ向かう。建物の造りは古めかしいけれど、電気は通っているし、家電も揃っているのが、いつ見てもちぐはぐで合理的だ。二人分の茶杯と茶壷をお盆に乗せて、部屋に向かう。楊さんは先ほどの彼と親し気に話していた。
二人の邪魔をしないようにそっと中へ入り、お茶を淹れる。
「どうぞ」
「ありがとう」
茶杯を彼の方へ置くと、まっすぐにこちらを見て、お礼を言ってくれた。その声音に、胸がどきりと高鳴る。
「小香。こちらは无限大人だ。大人、彼女は日本から来た子でしてな」
楊さんに紹介されて、どぎまぎとしながら小さく頭を下げる。
「日本から」
彼にじっと目を向けられて、落ち着かない気分になった。
「日本にも会館と同じようなシステムがありましてな。この子は代々妖精のために働いている家系の子です。この子の働く会館の館長とは長い付き合いでしてな。今回、お互いの職員を交換してそれぞれの環境を学ぼうじゃないかということになりまして」
それで来たのがこの小香です、と楊さんが細かく話している間、彼はじっと私を見ているので、その目を見返すわけにもいかず、まごまごしてしまった。無遠慮というわけではないから嫌な感じはしないけれど、まっすぐすぎて、気恥ずかしくなる。
私の姿は、彼にどんな印象を与えているんだろう。きっと、この人は誰に対してもまっすぐに視線を向ける人なのだろう。
「さて、話の続きですが」
楊さんが話を戻すと、彼も楊さんの方へ目を戻した。ようやく視線が外されて、ほっと息を吐く。一礼して、部屋を下がって、廊下に出てから、胸に手を添えるとまだどきどきしていた。
无限大人。
それがあの人の名前。
彼を一目見たときから、心臓がおかしな音を立てている。
穏やかで、美しくて、研ぎ澄まされた刀のような雰囲気の人。
頬が熱い。ほんの少しの時間だったはずなのに、翡翠の瞳で見つめられていたことが忘れられない。
どうしよう。
胸のときめきが、収まらない。